愛知県東三河地方の製材用水車タービン

 天野武弘


 

1.はじめに

 水車といえば大輪の在来型(日本型)を思い浮かべるが、明治になって西洋から入った水車タービンも革新的な動力として産業近代化に大きな役割を果たした。
 ここでは愛知県の東三河地方の豊川流域で使用された製材用の水車タービンについて紹介する。
 

2.水車タービン利用の黎明期

 水車タービンが日本に導入された当初は大出力が必要な鉱山、たとえば兵庫県の生野銀山(明治7年設置、明治33年の記録では100馬力と25馬力が2台)や秋田県の院内銀山(明治8年設置、明治33年の記録では40馬力)などに使われたが、次第に工場動力としても利用されていく。1876(明治9)年に京都の梅津製紙所、官営の新町屑糸紡績所(20馬力)で水車タービンが工場動力用として最初に使用された。
 東海地方では、1881(明治14)年開業の官営の愛知紡績所の工場動力(30馬力)として使用されている。愛知紡績所は民間紡績業を勃興させるための模範工場として開業し、全国10ヶ所ほどに建てられた初期綿糸紡績所の指導的役割を果たした。ここの動力がヨーロッパでも開発されて間もない水車タービンであった。そのため、明治20年代に建設された初期綿糸紡績所でもその大半が水車タービンを動力として操業された。
 水車タービンはその後、工場動力として使われるより水力発電用として広く普及していくことになる。1888(明治21)年に仙台の三居沢発電所(自家用、事業用としては明治25年の京都の蹴上発電所、120馬力20台)に使用されたのを始まりとして、明治30年代以後全国各地の発電所で設置されていくことになる。
 一方、小型の水車タービンの国産化と普及は、各地にそれを利用した小規模発電を勃興させる。愛知県東三河地方の豊川上流域でも大正から昭和初期にかけ、自家用や電気利用組合による数キロワット程度の小規模発電施設が各地で建設される。その動力に蒸気機関や内燃機関も使用されたが、三河地方山間部では水力を利用した水車タービンが数多く設置された。そこでは単に発電だけでなく、昼間は工場動力、夜間は発電として併用するところも多かった。そんな工場の一つに製材所があった。
 

3.小林製材所の水車タービン

 愛知県南設楽郡作手村の豊川支流の巴川沿いに水車タービンを動力とする製材所があった。1931(昭和6)年創業の小林製材所である。地元の6人の共同出資で昼間は製材所の動力、夜間は地元の電灯用の電力供給を目的として水車タービンが設置された。昭和11年12月の名古屋逓信局編纂の『第17回管内電気事業要覧』によると、出力1.2kw、最大電圧300ボルトとなっている。
 小林製材所は1941(昭和16)年1月に戦時統制によって閉鎖されるが、戦後に再開し昭和30年代半ば頃まで操業した。それ以後放置され、現在工場や製材機械は撤去(伊勢湾台風後に水車タービンを残して売却し職工の退職金にあてる)されているが、水車タービンはコンクリート造りの水槽内に残っている。当時の水車タービンは露出型(オープンフレーム)といって水槽がフレームとなるタイプが広く使われた。現在のフランシス水車に発展する初期の形態である。官営の愛知紡績所や初期綿糸紡績所の水車タービンもこの形態と同じであった。
 現存する水車タービンに付く銘板には名古屋の大池電機製作所で製造されたことが記されている。直径1mほどの縦型の露出型水車タービンである。24馬力といわれたが実際には15馬力くらいしか出なかった。そのため3尺用の竪鋸(製板用の鋸盤、20枚ほどの鋸刃付き)を運転するには難儀だったという。製材所に残された「勘定帳(昭和6年3月30日調べ)」には製材所建設に関わる工事決算書(工事総額2379円72銭)が記されている。その内訳は以下のようである。
 
  水道(水路)工事費        500円
  水車タービン・中間軸・皮車   480円
  ベルト代                70円
  セメント並び運賃         399円34銭
  出願費用              300円
  大工賃                 58円43銭
  木材・杉皮代            136円90銭
  職人賃                 16円60銭
  下手間105人(1日60銭)
  金具・油代              23円69銭
  機械運賃(名古屋より)      44円20銭
  雑費                  52円76銭
  立木皮ムキ賃            4円50銭
 
 内訳合計が工事総額と合わないが当時の水車設置諸費用の概要がつかめる。この勘定後に竪鋸など製材機械費用として2000円を追加出資し、総額4250円の建設資金が用意された。「勘定帳」には動力使用の日数が記され、製材所の稼働状況が見て取れる。創業年の昭和6年は100.5日、7年が166日、8年が158日、9年が176日、10年が173日、11年が156日、12年が135日と、ほぼ安定した操業がされていたことがうかがえる。
 製材機械は、創業当初は丸鋸1台で始めたが当時三河板として名声を高めていた2分3厘(7mm)の板を挽くには難しく、じきに板挽き専用の竪鋸を入れた。帯鋸(バンドソー)は戦後になってから入れている。
 小林製材では操業を止める昭和30年代半ば頃までずっと水車タービンを動力として使っていた。この地域最初の電灯を灯すことにも寄与し、最も多いときで20軒ほどに供給したようである。設置してから一度も取り替えることなくおよそ30年間ほど利用された水車タービンは、停止してから40年を過ぎたいまも現地でコンクリート水槽内に眠っている。

4.横川製材所の水車タービン

 愛知県の豊川筋にはもう1ヶ所水車タービンを動力とした製材所があった。南設楽郡鳳来町名号の横川製材所である。ここは豊川支流の大島川が豊川と合流する地点に建てられた。約150mの水路を大島川左岸に敷設し、小林製材所とおなじようにコンクリート水槽を造って水車タービンを設置させた。ここは発電にはまったく用いず製材所動力としてのみに使われた。
 横川製材所は1926(大正15)年10月に製材所設立が認可され、昭和2年2月に着工、10月に竣工し、翌3年に開業した製材所である。1925(大正14)年10月30日付けの県知事宛の「河川敷使用並ニ工作物設置願」に添付された「起業計画説明書」や「工事設計書」には図面付きで工事明細などが記されている。
 それによると、堰堤は高さ4尺(1.2m)、長さ60尺(18m)、幅は「天」が2尺(0.6m)、「敷」が6尺(1.8m)の玉石コンクリート造である。流木路(堰堤中央に幅6尺、勾配1/4)、魚道(堰堤取水口寄りに幅2尺、勾配1/12)も取り付けられている。水路は長さ80間(145m)、幅3尺(9.1m)、水路勾配1/1000、途中60間(109m)のところに余水堰を設けるように設計されている。また、使用水量は、水路幅3尺、深さ1.5尺(0.45m)、毎秒3尺の水量として、毎秒12.15立方尺を計算し、堰堤からの有効落差を10尺(3m)として理論馬力を13.5馬力と計算している。これらの設計から19馬力の水車タービンが設置された。堰堤、水路建設の費用は総額で1378円であった。
 横川製材所に残されていた図面から、設置された水車タービンは「最新式ウォプンフリウム水車、拾九馬力 東海道島田 大石鐵工所設計」と記されているように露出型の水車タービンであることがわかる。横軸単輪単流露出型フランシス水車である。同製材所の昭和16年の「製材業届出書」には公称馬力19馬力、実馬力13馬力が記されている。
 この水車タービンが据え付けられたコンクリート水槽は、図面で見ると、高さ8.2尺(2.5m)、縦幅10尺(3m)、横幅6.5尺(2.0m)、水車までの深さ10尺の大きさとなっているが、実測では高さ3.5m、縦幅2.6m、横幅1.6mである。実際には水槽の下部構造が設計通りではなかった(解体時の調査から)など現場の地形に合わせて造られたようである。
 河川の水量は比較的豊富で、渇水に悩むことは少なかったが、冬場には堰堤を丸太でかさ上げしてしのいだこともあった。後年この作業が増えたこともあり1955(昭和30)年に予備用のディーゼル機関を導入している。使用した製材機械は丸鋸盤をメインに4台が設置されていた。
 水車軸から製材機械への動力伝達は、工場階下の中間軸を介してベルトで伝えられた。水車の落差を得るため崖上など川面より高い位置に建てられた工場では、水車が階下にあるため必然的に地下に伝達設備が設置されたが、これは作業の安全面からもふさわしく、当時多くの工場で採用された方式である。
 現在、工場は1996年6月に解体、水車タービンは河川の護岸整備に伴い2001年4月に撤去となり、かつての製材所の面影はわずかに水路に見られる程度である。しかし幸いなことに、水車タービンとベルト車付き中間軸など一部の機械設備が所有者と鳳来町の理解によって、地域の産業遺産として町営の「やまびこの丘資料館」に保存展示されることになっている。また、同製材所の大正15年の創業期から昭和36年終焉までの関係史料788点も鳳来町に保存されることになった。
 

5.おわりに

 水車といえば在来型水車をイメージする人が圧倒的であろう。水車タービンはその構造上、回転する羽根車(ランナー)がケーシングに収まっていて回転部分が見えないため説明を要することが多い。とくに露出型水車タービンは、今では使われることがないためその存在すら忘れられている。
 ここで紹介したように露出型水車タービンは、かつては地域の発電用として、また工場動力用として比較的広く設置され重宝された設備であった。水車タービンは、未だひっそりと地域に埋もれているものも多いと思われる。新たな発見が期待できる産業遺産でもある。

本稿は、日本水車協会会誌「みずの輪」第15号(2003.3)掲載 



Update:2008/10/24  0000 (禁無断掲載)

中部産業遺産研究会会員
2003/10
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